天の刻(とき)
小池 真理子
【天の刻】 小池真理子 著
【天の刻】は、こんな物語です。
『 ここのところ、蕗子はせっせと死に支度をしている。
いつ死んでもいいように、身のまわりに余計なものは増やさない。見苦しいもの、人任せにできないようなものはそのつど、整理し、処分する。下着類は古くなった順に惜しげもなく捨ててしまう。………………・
四十七歳。いいことよりも、いやなこと、不快なこと、不条理なことがより多く起こりがちな年代でもあった。起こったことは、とりあえず黙って受け入れていかねばならない。たとえ悪性腫瘍だ、と言われても、はあ、そうなんですか。とうなずくだけで、大して自分は驚かなかったかもしれない、と蕗子は思う。
天の刻、という言葉が蕗子は好きだった。何にでも天の刻というものがある。いいことが起こるのも、悪いことが起こるのも、全部それは天の刻なのである。そう思って生きてきたせいか、蕗子はあまり物事に動じない。何か起こるたびに、ああ、これは天の刻なのだ、と思う。逆わらずに受け入れる。そういう生き方が板についている。………………………・・
…………………目を閉じると、昔関わった男たちの顔が甦る。
あれも恋だった、これも恋だった、と一つ一つ、丹念に思い返す。そのすべてにからだの関係があったというのに、からだのことを何ひとつ思い出せないのは不思議である。思い出すのは、その男と交わした会話、その男の汗ばんだ手のぬくもり、肌を合わせた時にふと足にあたった膝の堅さ、その男の笑い声、二人の間に漂った空気、そんなささやかなものばかりである。・・………………………
いずれにしても、悪くない人生だった、と蕗子は思う。もう欲しいものは何もないし、失うものも何もない。家の中はいつもきれいに片づいているし、いつ死んでも心残りはない。そう思って、蕗子はうっとりする。………………………・